神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)

1.イザヤ書45章22節―25節
2.ローマ人への手紙3章19節―26節
3.コリント人への手紙第一1章18節―21節
4.ピリピ人への手紙3章5節―9節

イエス様は群衆と弟子たちに「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」と仰せられてから「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と((マタイの福音5章17節―20節)、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うには言うが、実行していないからです。(マタイの福音書23章1節―3節)」と、仰せられました。ソロモンは「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。(伝道者の書7章16節:口語訳)」と警告しています。パリサイ人や律法学者の問題は、自分で自分を義人だと自任し、自分の義に生き、他者と比較して他の人々を見下し、自分を誇ったことにあるのではないでしょうか(ルカの福音書18章9節―14節)。パウロも律法による自分の義に生きていた時には、自分の考えでキリスト者を迫害していたのですが、ダマスコの途上でイエス様から声をかけられ、イエス様を信じる信仰によって神から与えられる神の義を知る者となり、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と、十字架の死の意味を悟ったのでした。神の義を実現するためにどれほどイエス様が苦しまれたかを心に据えてパリサイ人のように自分こそ正しいという思いに支配され、他者と自分を比較して、自分を誇らないように生きようではありませんか。