あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風にふかれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブの手紙1章5節―8節)

1.列王記第一18章19節―39節
2.マルコの福音書11章20節―25節
3.ヤコブの手紙4章3節―10節
4.ヤコブの手紙5章13節―18節

十二年長血をわずらった女性がイエス様のことを耳にし「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えて、イエス様の着物にさわると、すぐに血の源がかれて、ひどい痛み直り、いやされたので、その次第をイエス様に申し上げると、イエス様はその女性に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と仰せられたのですが、その信仰はイエス様のことを聞いて、絶望の中に一筋の光を見たように、最後の頼みとして、イエス様に対する信仰が生まれたのではないでしょうか(マルコの福音書5章25節ー34節)。逃げ口上としての場合もありますが、自分を卑下して「自分はバカだから」と人はよく言いますが、あきらめや劣等感を抱えながら生きるのではなく、ヤコブは「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と勧めていますが、「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風にふかれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」と、その際大切なのは信じて願いったり、祈ったりすることであり、日常生活において不安定な状態に陥ってしまう原因について、神を信じる一方で、自分の考えや経験、感情に支配されるために懐疑心をもって願ったり、祈ったりしているために心が二つに分かれてしまうためであることを指摘しています。ヤコブは願ってもかなえられない原因は動機が悪いから、とも語っています(ヤコブの手紙4章3節)。キリスト者には聖霊が与えられているので、動機が神が喜ばれないと、聖霊が働かれて心が二つに分かれてしまうようなこともあると思います。そのような時、主の前に静まり、神は私たちに何が必要なのかをよくご存知な方であることを思い起こし、結果は主が出されるという信仰をもって「あなたのみこころがなりますように。」と祈ろうではありませんか。