幸いなことよ。そむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊にあざむきのない人は。(詩篇32篇1節―2節)

1.詩篇11節―3
2.ガラテヤ人への手紙6章3節ー4節
3.エペソ人への手紙21節―10
4.ヘブル人への手紙104節―23

パリサイ人や律法学者の「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」という問いに、イエス様は群衆を呼び寄せて「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」と仰せられたのですが、その意味がわからなかった弟子たちに「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」と説明されたように(マルコの福音書7章1節―23節)、エレミヤ書17章9節が「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と語っているように、人の心は他者だけでなく自分さえも欺くような心を持っていますが(ガラテヤ人への手紙6章3節)、ヘブル人への手紙10章22節は「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから・・」と、その解決が十字架で流されたキリスト・イエスにあることを語っています。今日の聖句は「幸いなことよ。そむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊にあざむきのない人は。」と、「幸い」は、主との関係に関わっていることがわかります。キリスト者でもイスラエルの民のように、神にそむいたり、目線をイエス様から離して自分に向けるような罪を犯したり、咎、すなわち非難されるような間違いを犯してしまうようなことがありますが、キリスト者が罪に定められないようにイエス様はとりなしていてくださるのです。世の人々が考え、求めているような幸いではなく、主のゆえに幸いな者とされていることを喜び、主をほめたたようではありませんか。