あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)

1.伝道者の書31 節―11
2.ヤコブの手紙1章2節ー4節
3.ペテロの手紙第一15節―7
4.ペテロの手紙第一4章12節―16節

ヘブル人への手紙12章2節は「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それはあなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と勧めていますが、それは、イエス様がすべての点で、私たちと同じように試みに会われ(ヘブル人への手紙4章15節)、十字架の死にまで従われ三日目によみがえられたことによって神の栄光を現されたからではないでしょうか。神は、アブラハムに神が約束され百歳になったときに与えられたイサクをささげるように命じて試練に会わせられましたが、神がアブラハムに告げられた場所に着くと祭壇を築き、自分の子イサクを縛って祭壇の上のたきぎの上に置き、刀を取ってイサクをほふろうとしたとき、「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と言われただけでなく一頭の雄羊を備えておられたのでした(創世記22章1節―14節)。それゆえ信仰に関する記事にはアブラハムと彼の信仰のあり方がよく引き合いに出されます(ローマ人への手紙4章等々)。試練に直面すると、多くの奇蹟を体験しながらも神の偉大さを忘れてしまったイスラエルの民のように試練に目を向けて、主を見上げることを忘れて試練におしつぶされそうになるようなことがあるのではないでしょうか。そのよう時、今日の聖句「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」を思い起こさせていただき、自分では耐えられないと思っても、試練は信仰を完成するために、主の栄光が現されるためのものであるとともに、真実な主が耐えられるかどうかをご存知であるだけでなく、脱出の道と時は主がご用意されていることを心に留めて、主の時を待ち望もうではありませんか。