見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。(イザヤ書12章2節)

1.出エジプト記1427節―152
2.イザヤ書431節―5
3.ローマ人への手紙828節― 31
4.コリント人への手紙第一118節―25

主はイスラエルの民を約束の地に導く働きのためにモーセの後任者として立てられたヨシュアに「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前にたちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ、雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」と仰せられてから、「強くあれ。雄々しくあれ。」と繰り返し仰せられ「恐れるな」と励ましたのはヨシュアが恐れの中にいたからではないでしょうか(ヨシュア記1章5節ー9節)。主が紅海を二つに分けられて道を設けてくださり、エジプト軍がひとり残らず溺死したのを見たときにはモーセと民は今日の聖句と同じように「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。(出エジプト記15章2節)」と主を賛美したにもかかわらず、欲にかられて食べ物のことでエジプトを懐かしむようなことを言ったり、約束の地を探って来た者たちのうち約束の地について悪く言いふらした者たちのことばを信じて人を恐れ、主を信頼しないで荒野で死んだほうがましだなどという民であることを知っておられたために、何が起こるかわからない状態とともに、そのような民を無事に約束の地に導くことができるかどうか不安でもあったのではないでしょうか。恐れが襲って来たとき、今日の聖句が「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」と勧めているように、救い主であるイエス様はいつもともにおられることを心に留めて、この世がもたらす恐れや思い煩いからも解放することのできる主を見上げても恐れているなら、それは主を見えなくさせている悪魔の働きに惑わされて古い自分に生きている可能性があるのではないでしょうか。悪魔に勝利してくださった主を信頼し、主をほめたたえて生きようではありませんか。