いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57章15節)
1.出エジプト記3章1節―12節
2.詩篇51篇14節―17節
3.コリント人への手紙第二7章5節―11節
4.コリント人への手紙第二12章1節ー10節
モーセは大きくなるまで母に育てられてから、エジプトの王女の息子として成長し、自分の同胞ヘブル人のひとりをエジプト人が打っているのを見て、ほかにだれもいないことを見届けてからエジプト人を打ち殺して砂の中に隠し、翌日ふたりのヘブル人が争っているのを見て、悪い方のヘブル人に「なせ自分の仲間を打つのか」と尋ねると、彼から「だれがあなたを私たちのつかさやさばきづかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言われたので、モーセは恐れてミデヤン人の地に逃れ、ミデヤンの祭司イテロ(レウエル)の娘チッポラと結婚してミデヤンの地に住んだのですが、モーセのしたことを聞いてモーセを殺そうとしたエジプトの王が死んでから、神はモーセに苦役に苦しんでいるイスラエルの民をエジプトから連れ出すように仰せられたのですが、モーセは「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」と答えたのでした。そこには、エジプトで王女の息子という立場にいたかつてのモーセの姿はありませんでした。そのようなモーセに主は「わたしはあなたとともにいる。」と仰せられたのでした。今日の聖句は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」と、まず、主がどのような方であるかを語ってから、高く聖なる所に住んでおられる神は、上から見ておられるだけでなく、人ともに住まれることを、どのような人に住んでくださるのかを語るとともに、霊を生かし、心をいやしてくださる方であることを語っています。キリスト者になったパウロは自分がいかにみじめな者であるかに気づかされ悩みましたが、そのことによってキリスト・イエスによって明らかにされた神の愛、神の恵みの深さを知る者となり、「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)」と神である主が心に住んでおられることを自覚され、主が喜ばれるように生きたのでした。心が砕かれるようなことを経験し、自分のことをみじめと思うような時こそ、パウロのように私たちの信仰がなくならないように、罪に定められないようにとりなしていてくださる主が聖霊なる神として内住しておられることを自覚し、キリストにあって生かされていることを感謝しようではありませんか。