私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。(詩篇79篇9節)

1.サムエル記 第一 1721節―49
2.イザヤ書4314節―25
3.イザヤ書481節―11

主はご自身のことを「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10章10節)」と、また「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とご自身を一粒の麦にたとえられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を表してください。」と、祈られると、天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と声があったのでした(ヨハネの福音書12章24節及び27節―28節)。神は死に追いやる罪から贖い出すだけでなく、世全体を支配している悪しき者、すなわち悪魔の手からも救い出すために御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになりました。イエス様はご自身の願いよりも父から与えられた使命に生き、十字架の死にまでも従われたので、神はすべての名にまさる名をお与えになり、十字架の死と復活によって栄光を現されたのでした。今日の聖句が「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。(詩篇79篇9節)」と、パウロが「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と語っているように(ローマ人への手紙7章18節―24節)、人はとかく自分で自分を責めてしまうようなことがあるのではないしょうか。しかし、パウロは「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節−34節)」と、答えを持ったように、完全に救うことのできる大祭司である主がとりなしていてくださるので、罪に定められることはないことを感謝し主をほめたたえて生きようではありませんか。