主は、ご自分が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(ヘブル人への手紙2章18節)
1.歴代誌 第二 14章9節―15節
2.イザヤ書53章1節―12節
3.ヘブル人への手紙4章15節―16節
ヨハネからバプテスマを受け、聖霊に満たされたイエス様は、御霊に導かれて荒野で悪魔の試みを受けただけでなく、長老、祭司長、パリサイ人や律法学者たちから、ことばのわなにかけられたり、多くの苦しみをうけたりしただけでなく、最終的には犯罪人バラバの代わりに十字架にかけられ殺されたのですが、ヘブル人への手紙5章7節―10節は「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対してとこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」と、苦しみには意味があることを語っています。キリスト者はキリスト・イエスにある神の愛からどんなものをもってしても引き離されることはありませんが、罪を犯した時には人の杖、人の子のむちをもって懲らしめを受けることがありますが(サムエル記 第二 7章14節ー15節)、それは主に立ち返るためであることを心に留めるとともに、ヨブ記に見られるように主の許しの中でサタンがさまざまな試練をもって攻撃してくることがありますが、そのような時には、今日の聖句が「主は、ご自分が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」と語っているように、どんな状況下にあっても助けることのできる主であることを心に据え、ヘブル人への手紙4章15節―16節が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と、勧めているように、イエス様が父なる神に大きな叫び声と涙をもって祈られたように、心のうちを正直に主に申し上げて主を見上げ、脱出の道を備えてくださっている主(コリント人への手紙 第一10章13節)に期待して生きようではありませんか。