神はひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(ヨハネの手紙 第一 4章9節)

1.イザヤ書431節―4
2.ヨハネの福音書316節―17
3.ローマ人への手紙838節―39

人は神の存在を知っていても、神は霊であり、だれも見たことがなく、その実態がわからないために、自分よりすぐれた人や功績のある人の像や人間が持っていない能力のある鳥や獣などの像を造ったり、山を御神体と称してあがめるようなことを多くの方はしているのではないでしょうか(ローマ人への手紙1章20節―23節)。しかし、神は、神がどのような方であるかをはっきりわかるように御子イエス様をお遣わしくださったのでした(ヨハネの福音書1章18節)。ですから、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネの福音書14章9節)」と、ピリポに仰せられたのでした。その上、今日の聖句は「神はひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」と、神の警告を直接聞いていたアダムが妻エバの声に従って善悪の知識の木から取って食べたことによって、「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを食べるとき、あなたは必ず死ぬ(創世記2章17節)」と神が仰せられたように、全人類に「死(霊的死、肉体の死、永遠の死)」が臨んでしまったのですが、肉体の死以外の死から救い出すためにイエス様をお遣わしくださり、イエス様を信じる者に聖霊をお与えくださり霊的回復と永遠のいのちを与えてくださり、神が愛であることをはっきりとお示しくださったのでした。ですから、パウロは「キリスト・イエスにある神の愛(ローマ人への手紙8章39節)」と、イザヤ書43章1節に「恐れるな。わたしはあなたを贖ったのだ、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあるように、3節の「エジプト、クシュとセパ」の意味を考えあわせ、4節の「わたしに目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから人をあなたの代わりに、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」は贖われた者に対して語られていることを心に留め、神の愛を正しく把握し、十字架を意味ないもののようにするような危険な教えに巻き込まれないようにしようではありませんか。