愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。(ペテロの手紙 第一4章12節―13節)

1.創世記229節−14
2.ヤコブの手紙12節―4
3.コリント人への手紙 第一 10章13節
4.ペテロの手紙 第一 15節―9

バプテスマのヨハネはイエス様は聖霊と火のバプテスマを与えることを語っています(マタイの福音書3章11節)。イエス様が昇天されたあと、五殉節(ペンテコステ)に炎のように別れた舌が現れ聖霊に満たされた弟子たちは「だれが一番偉いか」と、議論をしたような福音書の弟子たちではなくなっていました。パウロが「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。(ローマ人への手紙15章16節)」と語っているように聖霊によって聖められたからではないでしょうか。ペテロは「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。(ペテロの手紙 第一 1章6節―7節)」と語ってから、今日の聖句「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」をもって、試練に会った時にはキリストがどのように生きられたかを思い起こすように勧めています。ヘブル人への手紙5章7節は「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と語っています。イエス様は十字架に架けられたとき「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなされましたが、ご自身を一粒の麦にたとえられてから、十字架に架けられる前に、神が栄光を現してくださること願ったのでした(ヨハネの福音書12章28節、ヨハネの福音書17章5節)。神は主が願われたように、死からのよみがえりをもって永遠の栄光を現されたのでした。主は試練の時も苦悩する時も私たちとともにおられ、信仰がなくならないように祈っていてくださること、私たちには理解できなくても試練にも意味があること、その先にはキリストのように称賛と栄光が待っていることを感謝して生きようではありませんか。