主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇1494節)

1.イザヤ書6110
2.ゼカリヤ書31節―5
3.黙示録191節―8

蛇に化身したサタンとも呼ばれる悪魔の偽りのことばを信じて神が食べないように警告した善悪の知識の木の実を食べて自分たちの考えでいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作り、神である主から食べてはならない木から食べたのか尋ねられると、アダムはエバに、エバは蛇に責任を転嫁して主に謝罪しなかったにも関わらず、神は彼らをすぐに滅ぼしたのではなく、かえって皮の衣を作って彼らに着せてくださっただけでなく、蛇、すなわち悪魔に対して「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と悪魔の敗北を預言したのでした(創世記3章15節及び21節)。イザヤ書1章18節は「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」と語っていますが、ヘブル人への手紙10章1節―4節は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことができません。」とある一方で、バプテスマのヨハネはイエス様を見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と、イエス様はどんな罪も取り除くことのできる方であることを、そして、黙示録7章14節が「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」と語っているようにイエス様が十字架で流された血によって前述のイザヤ書1章18節のことばは成就したのでした。さまざまなことで失敗した時、罪責感や罪悪感に悩むのではなく、今日の聖句「主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。」を心に据え、キリスト者は神の民とされており神に愛され、恵みによって救われており、全生涯の罪や罪過はすでに十字架で解決していることを感謝し、恵みの中に生き続けようではありませんか。