神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子の御支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ人への手紙1章13節―14節)

1.使徒の働き1325節―39
2.ローマ人への手紙319節―30
3.ローマ人への手紙7章19節―8章3 節

今日の聖句は「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子の御支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」と、イエス様が十字架の死によって全生涯の罪に対するつぐないをしてくださったので、イエス様を信じる者には罪の赦しが与えられているだけでなく、暗やみの圧制、すなわちサタンの支配(使徒の働き26章18節)からも救い出されていることを語っています。ゼカリヤ書3章1節―5節に「主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。『サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。』ヨシュアは、よごれた服を着て、御使の前に立っていた。御使は、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服を脱がせよ。』そして彼はヨシュアに言った『見よ。わたしは、あなたの不義を除いて、あなたに礼服を着せよう。』私は言った。『彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。』すると、彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。」と、サタンは告発者で、日夜私たちの神の御前で私たちを訴えるようなことをしますが、主はヨシュアではなくサタンをとがめたのでした。大祭司でありながらよごれた服を着ていたのは、ヘブル人への手紙10章4節が「雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことができません。」と、罪が赦されても罪が取り除かれていない状態であったからですが、イエス様は罪を取り除いてくださるかたなのです。人には記憶力があるので、過去の失敗や過ちなど、思い出したくないことが頭をよぎり、自分を責めてしまうことがありますが、前述のゼカリヤ書の聖句を思い起こして、信仰の完成者であるイエスから目を離させようとするサタンの策略であることを認識し、詩篇103篇2節が「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と勧めているように、過去を振り返る時、私たちの過去は、すでに十字架で処理されていることを、罪や死だけでなく世全体を支配しているサタン(悪魔)の手からも贖われていることを感謝し、主をほめたたえて生きようではありませんか。