信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブの手紙5章15節)

1.ローマ人への手紙10章1節ー17節
2.ヘブル人への手紙11章1節ー6節
3.ヤコブの手紙1章5節ー8節
4.ヨハネの手紙第一5章14節ー15節

ヘブル人への手紙11章3節「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と、そして6節は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と、パウロは「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ人への手紙10章17節)」と信仰について語っています。ですから、信仰による祈りは神に喜ばれるものであり、しかもヘブル人への手紙12章2節が「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めているように、イエス様との関係が不可欠であることがわかります。キリスト者は世界が神のことばで創造されたことを信じていますので、信仰が与えられていることはなんと幸いなことではないでしょうか。ところで、信仰による祈りがもたらす効力について「病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」と、語っているのは、パウロが経験したことではないでしょうか。パウロは内なる人としては神の律法を喜んでいるのそれに戦いをいどむ罪を自覚し、「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」と悩みましたが、「今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と解決を見出したのでした。現代の医学の力では解決できない不治の病があります。パウロも三度願っても癒されませんでしが、それは高ぶりの罪を犯さないためであることを悟られたのでした。そのパウロが「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の患難は、私たちのうちに働いて、計り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(コリント人への手紙第二4章16節ー17節)」と「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように(エペソ人への手紙3章16節)」と祈られているように、私たちも全生涯の罪が赦されていることを忘れずに、内なる人が強められるようにお互いに祈り合い、主を仰ぎ見て生きるように心がけようではありませんか。