兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ人への手紙5章13節)

1.ローマ人への手紙6623
2.エペソ人への手紙6章5節—8節

3.コロサイ人への手紙3章22節—24節

イエス様はイエス様のことばを信じたユダヤ人に「もしあなたがたが。わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と仰せられると、彼らは「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったことはありません。あなたはどうして『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」と尋ねたので、イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と答えられたように、人が考える「自由」とみことばが語っている「自由」にはずれがあります。パウロはキリスト者になる前は律法による自分の義に生きていましたが、彼はキリスト者になってはじめて自分のうちに罪があることを認識し、「罪の奴隷」として生きていた事を告白する一方、「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷になったのです。」と、その義は、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義であるため(ピリピ人への手紙3章9節)、キリスト者は「罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ人への手紙6章22節—23節)」と、世全体を支配している悪魔や死から自由にされ、神のご支配に移されているのです。イエス様は弟子たちの足を洗われご自身の愛を示されましたが、それは奴隷のする仕事でした。イエス様は神であるにもかかわらず、仕えられるためではなく、かえって仕えるために、しかも、贖いの代価として、自分のいのちをささげられたことを、人の奴隷になっていなくても神の奴隷とされていることを心に据え、パウロが「奴隷たちよ、あなたがたはキリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれ報いを主から受けることをあなたがたは知っています。(エペソ人への手紙6章5節—8節)」と勧めているように生きるなら、人に仕えることは主に仕えることであり、それは主の戒めを守る事、すなわち主を愛していることになり、今日の聖句「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」に生きることができると思いますが、たとえ失敗しても恵みの座で、私たちの弱さを主はご存じで、とりなしていてくださることを感謝し、恵みの中に生き続けるなら、聖霊様が助け手くださり、今日の聖句に生きられるようにしてくださるのではないでしょうか。