人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。(箴言21章2節)

1.ルカの福音書639節―45
2.ルカの福音書211節―4
3.使徒の働き8章6節―25節

イエス様がペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われると、ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言って、ペテロはプロの漁師でしたが、イエス様の言われたとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになったので別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだので、彼らがやって来て魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになったのを見たペテロはイエス様の足もとにひれ伏して「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と、申し上げると、イエス様は「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と仰せられたので、ペテロだけでなくヤコブもヨハネも舟を陸につけると、何もかも捨てて、イエス様に素直に従ったのでした(ルカの福音書5章4節―11節)。今日の聖句が「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」と語っているように、パウロも律法による自分の義に生きていた時には「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。」と、自分の考えで行動していたのですが、イエス様が「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(マタイの福音書5章6節)」と仰せられたように、ダマスコの途上でイエス様から声をかけられキリスト者となったパウロは、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰に基づいて神から与えられる義を知る者となり、自分に生きるのではなくキリストの中にある者として生きる者へと変えられたのでした。ヤコブの手紙4章3節は「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と、主は心を見られる方であることを語っています。自分の思いや考えよりも、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と仰せられた主を心に据え、主を信頼して生きようではありませんか。