神が私たちに与えてきださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。(テモテへの手紙 第二 1章7節)

1.使徒の働き41節―12
2.ローマ人への手紙425節―55
3.ローマ人への手紙8章15節―16節

聖霊が下ったのは五旬節(ペンテコステ)の日でしたので、福音書の弟子たちはまだ聖霊の力に満たされていませんでした。そのため、ペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」とイエス様に申し上げましたが、「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」とイエス様が預言されたことが現実となったのでした(ルカの福音書22章33節―34節及び56節―60節)。イエス様は昇天される前「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1章8節)」と仰せられたように、聖霊が下り、聖霊に満たされたペテロは今日の聖句が「神が私たちに与えてきださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」と語っているように、もはや福音書にみられたような人を恐れたおくびょう者ではなく、大胆に福音を語っただけでなく「この中でだれが一番偉いだろうか」などと論議するような者ではなく慎み深い者となり、神の愛に生きる者となったのでした。神が約束された地を探った12人は同じ状況を見たにも関わらずカレブとヨシュア以外の人は自分とアナク人を比較して「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らもそう見えたことだろう。」と、奇蹟を体験していたにも関わらず、神がどのような方であるかを忘れて、おくびょうになってしまったのでしたが、ヨシュアとカレブはアナク人を神と比較し「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。」と、信仰にたったのでした。おくびょうになる原因を「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」という箴言29章25節に見ることができるのではないでしょうか。神がどんな偉大な方であるかを忘れず、キリスト者には力と愛と慎みの霊、すなわち聖霊が与えられていることを自覚し、人を恐れるよりもヨシュアやカレブのように神がどんな偉大な方であるかを心に留め主を信頼して生きようではありませんか。