心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。(マタイの福音書58節)

1.ヨハネの福音書31節―7
2.ローマ人への手紙1514節―16
3.ヘブル人への手紙10章1節―18節

人は心のきよさを求めて修行をはじめさまざまな方法を試みますが、コロサイ人への手紙2章20節―23節は「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行のゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」と語る中で、キリスト者も気をつけないと「世の生き方」、すなわち罪が赦されているという恵みに生きるのではなく世の人々と同じように自分の力でなんとかしようと心を自分に向けるような生き方をしてしまいますが、パウロが「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいとう願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う線を行わないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章18節―20節及び24節)」と語っているように、自分を見たら情けなくなって思うのではないでしょうか。なぜなら、エレミヤ書17章9節が「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」と語っているように、絶望状態にあるからですが、ヘブル人への手紙10章22節は「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と、パウロが自分に与えられた使命について「私は神の不福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。(ローマ人への手紙15章16節)」と語っているように、心がきよくされる可能性があることを、そしてそれは十字架で流されたイエス様の血によって可能であり、聖なる者とされるのは聖霊の働ききであることを語っています。ですから、イエス様はニコデモに神の国に入るためには水と御霊によって生まれ変わる必要性を語ったのでした(ヨハネの福音書3章5節)。今日の聖句が「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」と語っているように、キリスト者はやがて天国で神を見ますが、日々の生活においても心がきよくされ聖なる者とされている者らしく、心を自分に向けるのではなく、贖い主である主をほめたたえ、主に栄光を帰して生きようではありませんか。