しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(テモテへの手紙 第一 6章6節)

1.詩篇231節―6
2.ピリピ人への手紙48節―13
3.ペテロの手紙 第二 12節―4

パウロは、「くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えがそしられないらめです。信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されておる人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑いが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。(テモテへの手紙 第一 6章1節―5節)」と、キリスト者が気をつけなくてはならない生き方を語ってから「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」と、語られました。世の人々は神でありながらご自分を無にして罪人を救うために神に仕える者としてご自身を現されたイエス様を(ピリピ人への手紙2章6節ー8節)、十字架の恵みを知らないと、自分の義に生きて高慢に振る舞うだけでなく、パウロが「私たちももみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2章3節)」と語っているようにさまざまな欲に支配され、満ち足りる心を持つことができないのではないでしょうか。ですから、パウロはキリスト者に「世と調子を合わせてはいけません。(ローマ人への手紙12章2節)」と語っているのではないでしょうか。「満ち足りる心を伴う敬虔」は、罪人を、私たちを救うために御子イエス様を人としてこの世に遣わされた神の愛とご自身をささげられイエス様がどのように生きられたかを、神のさばきに会うことなく、この世が、人がどんなに努力しても得ることできない利益、すなわち、永遠のいのちが与えられていることを、さまざまな状況下で考えるなら、いのちと敬虔に関するすべのことを与えてくださる神の力が臨み(ペテロの手紙第二1  章3節)、私たちの心は満ち足りたものとなり、見掛け倒しの敬虔さではなく、神が求めているような霊とまことをもって礼拝する礼拝者となり(ヨハネの福音書4章23節ー24節)、主が喜ばれる生き方をしていることになるのではないでしょうか。