わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア書66節)

1.詩篇461節―11
2.イザヤ書3611節―3720
3.エレミヤ書923節―24

イエス様は「イエス様は自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、たとえ話しをもって「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」と語られました。パリサイ人は自分の行いを誇ったのですが、取税人は神がどのような方なのかを知っておられたのではないでしょうか。マルタはイエス様をもてなすために落ち着くことができず、イエス様の足もとにすわってみことばに聞き入っていたマリヤに手伝うように言って欲しいことをイエス様にお願いすると、イエス様は「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と仰せられました(ルカの福音書10章38節―42節)。キリスト者も気をつけないと、教会の働きが前進するために、奉仕は大切ですが、主を心の中心に置いて主から与えられた奉仕でないと、「伝道のため」と言いながら、実際は、教会を自分の能力を発揮する場としてしまうようなことがあるのではないではないでしょうか。イエス様は「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネの福音書4章23節―24節)」と、神は求めておられるのは礼拝者であることを心に据え、今日の聖句が「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」と語っているように、神が喜ばれるように、神がどのような方であるかをまず考慮して生きるようにしようではありませんか。