正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。(箴言21章3節)
1.エレミヤ書22章1節ー4節
2.エレミヤ書33章14節-15節
3.アモス書5章21節ー24節
4.ミカ書6章6節ー8節
ミカ書6節ー7節において「私は何もって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。」と悩みながら、「全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。」と、思い悩みながら、主がアブラハムの信仰を試すためにイサクを捧げるように仰られたことを思ってでしょうか「私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。」と、また、ダビデがバテシバとの姦淫の罪を悔い改めたことによって、罪は赦されましたが、姦淫の罪の実であった子どもが亡くなられたことを思ってか「私のたましいの罪ために、私に生まれた子を捧げるべきだろうか。」と、自問しましたが、ダビデが祈っても癒されずに子どもが亡くなったのは、ダビデが姦淫の罪だけでなく、ウリヤを戦場で死なせるようなことをした罪から解放するため、ちょうど私たちの全生涯の罪をイエス様が取り除いてくださったように、罪の実を取り除かれたのではないでしょうか。今日の聖句が「正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる」と語っているように、何が主に喜ばれることなのかを悩む者に「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めているのか。それは、ただ広義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書8節)」と主のことばを取り次いでくださっています。ところで、エレミヤ書33章15節は公義と正義を行う方はイエス様であることを預言していました。御霊に満たされ、主が喜ばれるように生きたパウロが「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見習ってください。」と勧めているように、十字架上で人々のために取りなして祈られ、罪人のためにいのち捧げられ正義と公義を行われたキリストを見ならって生きるために、弟子たちに注がれたのと同じように聖霊によって与えられる上からの力をいただこうではありませんか。
