神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。(詩篇669節)

1.サムエル記 第二 2231節―37
2.詩篇3730節―31
3.詩篇3816節―22
4.詩篇9411節―19

アサフは「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。」と語ってからその理由を「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。彼らはその口を天にすえ、その舌は地を生き巡る。それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。こうして彼らは言う。『どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。』見よ、悪者とは、このような者だ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。」と、語ってから「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました、あなたは私の右の手をしっかりつかまえました。」と、神よりも神をないがしろにして生きているに人に目をとめて彼らと自分を比較して悩んだ時にはわきまえのない獣のようであったことを告白するとともに、そのような時でも神はいつもともにいてくださり、支えてくださったことを語っています(詩篇73篇1節―23節)。ヨハネの福音書1章16節―17節は「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した。」と、イエス様はご自身のことを「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネの福音書14章6節)」と仰せられたことを考え合わせると、今日の聖句「神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。」は、神は私たちをいのちと恵みに満ちたキリストのうちに保ってくださり、私たちの足をよろけさせないだけでなく、真理のみことばに生きることができるように導いてくださるのではないでしょうか。世から目を離し、御子をお遣わしくださった神と十字架で神の愛を示され恵みに満ちたイエス様に感謝をささげ、聖霊が導いてくださるようにキリストのうちにとどまって生きようではありませんか(ヨハネの手紙 第一 2章27節)。