義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(イザヤ書3217節)

1.ローマ人への手紙319節―26
2.ローマ人への手紙425節―51
3.エペソ人への手紙2章14節ー19節

キリスト者となったパウロは「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことがでいる、という望みがあるからです。(ピリピ人への手紙3章9節)」と、「義」には二種類あることを語っています。イエス様は自分を義人と自任し、他の人々を見下している者たちに対して「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカの福音書18章9節―12節)」と語られた、たとえ話に見られるように「自分の義」に生きていると平和をつくり出すよりも、高ぶって人を裁くような、人を見下げるような高慢さを生むのではないでしょうか。パウロはキリスト者になる前は聖霊を持っていなかったので神のみこころがわからず「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と語ったように、キリスト者を敵視して行動したのでした。イエス様は「平和の君」であり、この世が与えることのできない平安を与えることのできる方であり、すべてを働かせて益としてくださる方なので、今日の聖句「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」は、神の義であるイエス様について語っているだけでなく、イエス様の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイの福音書5章9節)」ということばから、神の義をいただいているキリスト者に適用されるものではないでしょうか。自分の考えで生きるとパリサイ人として生きていたパウロのように誤った判断をしてしまうのではないでしょうか。真理のみことばに生きるように主に助けていただこうではありませんか。自分の義に生きて神の義に生きることに失敗した時には十字架を仰ぎ見て、その失敗のために十字架があることを感謝して恵みの中に生きようではありませんか。