主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。(詩篇121篇3節)

1.詩篇665節―9
2.詩篇9416節―19
3.詩篇119129節―133

ヨシュアの時代、主に遣わされた人々の意見によって戦ったためにアイでの最初の戦いでは敗北しましたが、主の声に聞き従って戦ったので勝利をおさめたのですが、士師記の時代になると、霊的に堕落し、サムソンの時代には、神がイスラエルの支配者であることを民は心に留めず、ユダに対して陣を敷き、レビを攻めたペリシテ人に「なぜ、あなたがたは、私たちを攻めに上って来たのか。」とユダの人々が尋ねたので、ペリシテ人が「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上って来たのだ。」と答えると、ユダの人々はサムソンに「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。あなたはどうしてこんなことをしてくれたのか。」と言い、イスラエルに救いをもたらす器として主が民に与えられたナジル人サムソンを縛ってペリシテ人に渡すようなことをした士師記の時代の人々は霊的に鈍くなった時代でしたが、その原因を士師記21章25節は「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」と語っていますが、自分勝手に生きるようなあやまちを犯した民を、神は決して捨てるようなことはせずに、AD70年にローマ軍によってエルサレムが陥落し、民は離散し国を失ったにも関わらず、1948年5月14日にはイスラエルが再び建国され、今日までも守り導かれているではありませんか。イザヤ書53章6節が「私たちはみな、羊のようにさまよい。おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と、語っているように主を信じていても自分勝手に生きてしまい、主をないがしろにするような過ち(咎)を犯しますが、イエス様がその咎背負って十字架で咎に対する罰を受けてくださり、咎だけでなく罪悪感や罪責感からも解放してくださり、理解できないような出来事や困難な状況に遭遇して足がよろけて信仰の歩みができないような状態になっても、箴言16章9節が「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」と、また今日の聖句が「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」と語っているように、どんな時にも主が私たちの足、すなわち歩みを守り支え導いてくださり、確かなものとしてくださることを感謝して生きようではありませんか。