外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ人への手紙2章28節―29節)
1.ヨハネの福音書3章1節―7節
2.使徒の働き7章51節―53節
3.コロサイ人への手紙2章8節―11節
割礼は、主がアブラハムが九十九歳になったとき「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中にすべての男子は割礼を受けなさい。」と、生まれて八日目に行うように仰せられたことに端を発しています(創世記17章9節―13節)が、いくら肉体に割礼を受けて神の民とされていてもそれが形ばかりのものになり、ヨハネの福音書1章9節―11節が「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と語っているように、ユダヤ人の中には信じた人もいましたが、祭司長、長老たちは群衆を扇動して人殺しバラバの代わりにイエス様を死刑にするように十字架につけるようにピラトに要求したのでした。ステパノはそのようなことをした祭司長、長老たち、キリスト者を迫害しているユダヤ人たちの問題は、肉体の割礼は受けていても心と耳に割礼を受けていないことにあることを、そのために聖霊に逆らっていることを指摘しただけでなく、石を投げて撃ち殺そうとしている人々のために息をひきとる前に「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」ととりなして祈られたのでした。今日の聖句が「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と語っているように、キリスト者はイエス様を信じることによって聖霊によって新しくされ、神に選ばれたユダヤ人同様神の民とされていることを、御国を受け継ぐことが保証されていることを喜んで生きようではありませんか。(エペソ人への手紙1章14節)。