聖書箇所
「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで、聞こうとするなら、あなたがたはこの国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。(イザヤ書1章18節―20節)
<関連聖句>
1.詩篇51篇5節―9節
2.ゼカリヤ書3章1節―5節
3.マタイの福音書12章14節―32節
4.ヘブル人への手紙10章14節―22節
<メッセージ>
ヘブル人への手紙10章1節―4節は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々を完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」と、語っていますが、バプテスマのヨハネはイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネの福音書1章29節)」と、律法にはできないことをイエス様はしてくださったのです。ですから、今日の聖句は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と、「緋」、すなわち濃く明るい赤色であっても、「紅」、すなわち鮮やかな赤色であっても、雪のように、羊の毛のようにされることを語っていますが、それは、イエス様の「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊を汚す者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコの福音書3章28節―29節)」と語られたことばに見ることがでいるのではないでしょうか。イエス様は赦されない罪は一つしかないことを語っていますが、キリスト者には聖霊が与えられているのですから、聖霊を悲しませたり(エペソ人への手紙4章30節)、聖霊を消す(テサロニケへの手紙 第一 5章19節)、すなわち肉の思いが聖霊様が働けないような状態にしてしまうこともありますが、汚すことは不可能であることを、決して罪に定められることなく(ローマ人への手紙8章33節ー34節)、御国の民とされ永遠のいのちが与えられていることを心に留めて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちは祝福されていることを感謝して生きようではありませんか。
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