私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(テサロニケへの手紙第一5章8節―9節)

1.使徒の働き26章9節―18節
2.ローマ人への手紙5章6節―11節
3.エペソ人への手紙2章1節―9節
4.エペソ人への手紙6章

パウロが主から「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは、彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」と仰せられたように、キリスト者はサタンの支配から解放されているのですが、イエス様が荒野で試みられたように、日々の生活においてキリスト者はイエス様のように悪魔(サタン)の試みに会いますが、悪魔に勝利するために「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」と、神の武具を身につけることを勧めているとともに、イエス様を信じる前の状態について「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子でした。(エペソ人への手紙2章3節)」と語っていますが、キリスト者について「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」と語るとともに、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と警告してから「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ人への手紙4章26節及び31節―32節」と勧めているように、行いではなく恵みによってイエス様を信じる信仰が与えられていること、神の怒りから救われていること、十字架で示された神の愛を忘れずに、慎み深く生きるように心がけようではありませんか。