義を求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか、信仰によって追い求めることをしなしで、行いによるかのように追い求めたからです。(ローマ人への手紙9章30節ー32節)
1.マタイの福音書5章17節ー20節
2.ルカの福音書18章9節ー14節
3.ローマ人への手紙3章19節ー26節
4.ピリピ人への手紙3章2節ー9節
イエス様は群衆と弟子たちに「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。・・・まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。(マタイの福音書5章6節及び17節と20節)」と仰せられたのでした。パリサイ人や律法学者たちは、イエス様が人々を癒されたのが安息日でしたので、イエス様を信じるよりもかえって非難したのは、イエス様が「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。(マルコの福音書2章27節ー28節)」と仰せられたように、イエス様のことばを受け止めず、安息日の本質を見落としまったためではないでしょうか。キリスト者になったパウロは「義を求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか、信仰によって追い求めることをしなしで、行いによるかのように追い求めたからです。」と語ると一方で「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエルの一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうしてイスラエルはみな救われる、ということです。(ローマ人への手紙11章25節)」とも語っていますし、神はすべての人が救われることを願っておられるからではないでしょうか(テモテへの手紙第一2章4節)。行いでなく恵みによって信仰が与えられ、義人とされ、救われていることを感謝して生きるように心がけようではありませんか。
