神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節)

1.伝道者の書9章11節ー12節
2.哀歌3章22節―41節
3.ローマ人への手紙11章25節―36節
4.コリント人への手紙第一2章1節―16節

主から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンは、パウロが「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それ心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこしているのを見いだすのです。(ローマ人への手紙7章22節―23節)」と語っているのと同じように、「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。」と、語ってから、「人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。」と、「天の下」すなわち「この世」において何が良いのかを「愚かさ」すなわち、詩篇14篇1節が「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。」と語っているように、創造者なる神を認めない世の人々と同じ視点からこの世を探索することにしたのでした。彼はこの世を見た時、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。等々」と、両極の間を人は生きていることを語ってから「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と語っているように、彼は「私は再び、日の下を見たが、」と、「日の下」、すなわちこの世を見た時、「競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。」と語っています。実は、パウロも「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず、深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知り難いことでしょう。(ローマ人への手紙11章33節)」と語っていますが、その一方で「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って、召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)と語っています。人には理解できないことが起きますが、神は神の時にすべてを美しくしてくださること、すなわち、すべてを益としてくださることを信じて、苦悩し苦しむことがあっても主の十字架を思い起こし、やがて死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない新しいエルサレム、すなわち神の都で永遠に主とともに生き続ける明るい未来があることを、今日も生かされていることを感謝して生きるように心がけようではありませんか。