暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。ー光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのですーそのためには、主に喜ばれることが何であるのかを見分けなさい。(エペソ人への手紙5章8節ー10節)
1.マタイの福音書5章14節ー16節
2.使徒の働き26章9節ー20節
3.ローマ人への手紙12章2節ー18節
4.ヨハネの手紙第一1章5節ー2章2節
ヨハネの福音書3章17節ー20節が「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている、そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」と光とやみの違いを語っています。ですからパウロは「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」と、キリスト者はイエス様を信じることによってやみから光に、サタンの支配から神の御支配に移され、光の子とされていることをわきまえて生きるように勧めています。そのためには自分でも人でもなく神は喜ばれることが何であるのかを見分けるように勧めているとともに、イエス様はにせ預言者を実によって見分けることができることを話され得たように、「光が結ぶ実はあらゆる善意と正義と真実なのです」と、光の子どもらしく生きているかどうかは行いや生き方によって表されることを語っているのではないでしょうか。パウロはテモテに「私の福音の言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。(テモテへの手紙第二2章8節)」と語っているように、心を静めて、私たちが救われるためにご自身を捧げられたイエス様が喜んでおられるかどうかを考えるなら、イエス様が「御霊はわたしの栄光を現します。(ヨハネの福音書16章14節)」と仰せられたように聖霊様がお働きくださっておのずとなすべきことが、どう生きるべきかがわかるのではいでしょうか。
