まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(歴代誌第一16章25節ー26節)
1.創世記1章1節ー8節
2.詩篇115篇9節ー18節
3.イザヤ書44章9節ー25節
4.使徒の働き17章16節ー34節
パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それはこう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか、この世の議論家はどこにいるのですか。神はこの世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。(コリント人への手紙第一1章18節ー21節)」と旧約聖書を引用されて語っています。確かに、自分たちの考えやこの世の霊の働きによって世界中に数えきれないほどの神々が存在しますが、目があっても見えず、足があっても動けず、耳があっても聞くことができないような偶像の神々は人の手によって世話してもらわなければならないむなしいものです。ですから今日の聖句は「まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。」と語っているのではないでしょうか。ところでヘブル人への手紙11章3節は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と、信仰によらなければ理解できない世界があることを語っています。この世の知恵ではなく、今日の聖句にあるように主の偉大さを忘れずに畏敬の念をもって主を誉めたたえようではありませんか。