どうか、平和の主御自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。(テサロニケへの手紙第二3章16節)
1.イザヤ書9章6節ー7節
2.ローマ人への手紙12章3節ー18節
3.ローマ人への手紙14章14節ー19節
4.エペソ人への手紙2章1節ー19節
挨拶として、賛美の言葉としても用いられる「シャローム」はヘブル語で「平和」を意味することばですが、その意味は単に戦争や争いのない状態というよりも神と人、人と人との正しい関係を意味するものであり、それは人の知恵や努力によってもたらされるものではなく、パウロが「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。(ローマ人への手紙4章25節ー5章1節)」と語っているように、十字架の贖いによって確立されたがゆえに、神との平和を持っているだけでなく、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とはさまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙2章11節ー19節)」と語っているように、敵意がなければ、人間関係においても平和が実現されるのではないでしょうか。ですからパウロは「どうか、平和の主御自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」と祈られたのではないでしょうか。パウロがテモテに勧めているように、いつも、どんな時にも死からよみがえられた平和の君であるイエス様のことをいつも思うようにしようではありませんか。