さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。(詩篇66篇5節ー6節)
1.出エジプト記14章16節ー31節
2.ヨシュア記3章9節ー17節
3.イザヤ書43章1節ー7節
4.ローマ人への手紙8章28節ー39節
出エジプト記33章11節に「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」とありますが、それは神との関係がどれほど親しいものであるのかを語っているのであり、モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と主に申し上げると、主は「あなたは私の顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と仰せられたように(出エジプト記33章18節及び20節)、神は霊であるので神を見ることはできませんが、今日の聖句が「さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。」と語っているように、イスラエルの民が神が約束された地に入るために紅海の海水を、ヨルダン川の水を二つに分けられた聖書の記述によって目には見えない神がどのような方かを知り、信じることができることはなんと幸いなことかと思わされます。ヨハネの福音書1章18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」とありますが、父のひとり子であるイエス様は十字架の死をもって神が愛であることを示されると共に死からのよみがえりをもって、神の力がどのようなもであり、死に勝利するいのちを明らかにされ、イエス様を信じることによってペテロが語っているように生ける希望を与えてくださったのでした。今日の聖句が「さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。」と勧めているように、創造者なる神を知ってること、贖われていることを喜ぼうではありませんか。