信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。( ヘブル人への手紙11章6節)

1.マタイの福音書15章21節ー28節
2.マルコの福音書5章25節ー42節
3.ローマ人への手紙10章1節ー17節
4.ヘブル人への手紙12章2節ー3節

パウロはアテネの町が偶像でいっぱいのを見て憤りを感じて会堂でユダヤ人や神を敬う人たちと広場ではそこに居合わせた人々や哲学者たちと論じたことによってアレオパレスの会議で弁明する機会が与えられたので「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。(使徒の働き17章22節)」と、信仰ではなく「宗教心」と話されました。なぜなら偶像崇拝による敬虔さは自己満足に陥ってしまったり、習慣に縛られてしまうような状況を生み出してしまうからではないでしょうか。パウロも律法よる自分の義に生きていた頃は、神に対して熱心でしたが、福音を語っていたステパノを殺すことに賛成し、キリスト者を迫害していたのは、神もイエス様も知らなかったのですが(ヨハネの福音書16章3節)、自分が迫害していたのはキリスト者ではなくイエス様ご自身であることを知らされ、ヘブル人への手紙12章2節が「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さなでいなさい。」と語っているように、パウロも「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ人への手紙10章17節)」と、信仰はキリストとの関係において与えられるものであることを悟らされたのでした。ですから、今日の聖句は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と語っていますが、キリスト者には信仰が与えられているがゆえに神に喜ばれている存在であることを自覚するとともに、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)」と語っているパウロと同じ信仰に立って神が喜ばれるように生きようではありませんか。