私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。(詩篇104篇34節)
1.マルコの福音書14章32節ー26節
2.ローマ人への手紙11章33節ー12章3節
3.ヤコブの手紙4章8節ー15節
4.ヨハネの手紙第一5章5節ー15節
人が悔い改めて生きることが神の願であることをエゼキエル書18章23節は語っています。イエス様は「パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようとせず、自分の胸をたたいて『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」と、高ぶりは罪ですから、自分の義に生き、他の人々を見下すような生き方をしないように忠告されたのでした(ルカの福音書18章9節ー14節)。今日の聖句は「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」と、私たちの心の思いが神のみこころにかなっているなら、「私自身は、主を喜びましょう。」と、私たちの心の思いが生き方にも反映されることを語っているのではないでしょうか。主をご存知ないと、キリスト者でも主を忘れると心の思いが自分の感情や欲に支配されて神のみこころを求めないような生き方をしてしまうのではないでしょうか。総督であったネヘミヤはみことばを聞いて泣いていた民に「きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力です。(ネヘミヤ記8章10節)」と話されました。心の思いが神のみこころにかなうようにするために、主がどのような方であるのかを忘れず、どんな時にも見捨てることをなさらず、すべてのことを益としてくださると主を喜んで生きようではありませんか。