知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(詩篇4篇3節ー5節)
1.申命記8章1節ー18節
2.箴言3章1節ー12節
3.イザヤ書40章21節ー31節
4.ヘブル人への手紙12章2節ー13節
ダビデは、どこにでもサウルが遣わす所に出て行って勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とされたのですが、ペリシテ人との戦いに勝利して凱旋すると女性たちが笑いながら「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」とくり返し歌ったためにサウルはそのことばを聞いて非常に怒り、不満に思って「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と言い、その日以来ダビデを疑いの目で見るようになり、人生の目的がダビデを殺害することになってしまったのでした(サムエル記第一18章5節ー11節)。そのためにダビデは自分のいのちを愛し、自分の考えで逃亡生活を続け、敵であるペリシテ人の陣地に逃げ込むようなこともしてさまざまな窮地に追い込まれましたが、それと同時に主ご自身がどのような方なのかを知る者になり、「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」と勧めています。私たちはとかく自分の考えを正しいとして、さまざまなことを判断し、決断しやすいものですが、主は聖徒をご自分の子として扱われ、私たちの益のために、ご自分の聖さにあずからせ、平安な義の実を結ぶように訓練されることをヘブル人への手紙12章5節ー11節は語っています。「罪」は「的はずれ」の意味があります。想像力を働かせて思い悩んだり、物事を判断するよリも、主の前に静まって、主は全てのことを、全ての人のうちにあるものをご存知であり必要なものは必ず与えてくださる方であることを感謝し、主を信頼して生きようではありませんか。