われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び歌え。(詩篇81篇1節)
1.ネヘミヤ記8章9節―12節
2.詩篇18篇1節―3節
3. 詩篇28篇6節―7節
4.使徒の働き3章1節―15節
パウロは獄中にあるにもかかわらず「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と語ってから「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にある道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも貧しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。(ピリピ人への手紙4章4節及び12節―13節)」と、どんな状況の中にあっても喜ぶことができたのは神の愛と恵みを深く知っておられたことと、「ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(コリント人への手紙第一1章24節―25節)」と告白しているように、キリストに生き、神からの力を受けていたからではないでしょうか。主がモーセをイスラエルの民に遣わされる時「『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた』と言え。」と仰せられましたが、興味深いことに今日の聖句は「ヤコブの神に喜び歌え。」と勧めています。ヤコブは兄や父を騙して祝福を自分のもとするようなことをしましたが、それでも、エサウを恐れ、主の約束をもって祈られたヤコブを主は祝福されたのでした(創世記32章1節―29節)。私たちもヤコブのように、ダビデが自分のいのちを愛し、サウルから逃れるために自分の考えで行動し窮地に陥ってしまっても主に立ち返ると勝利を与えてくださったように(サムエル記第一27章1節及び30章)、肉の行いに走ってしまうようなことがあっても、恵みの座に出て、とりなしていてくださる主を思い起こすなら、主からの平安と力が与えられるのではないでしょうか。力の源である恵みとまことに満ちておられる主がいつもともにいてくださることを喜び、主を誉めたたえて生きようではありませんか。