いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)

1.ネヘミヤ記8章6節―12節
2.マタイの福音書5章10節―12節
3.ガラテヤ人への手紙5章16節―22節
4.テサロニケへの手紙第一5章15節―19節

イエス様はご自身を一粒の麦にたとえられてから「わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」とゲッセマネの園では「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころを、なさってください。」とだえ苦しまれながら、ご自身を父なる神に委ねる祈りをささげられ、十字架の苦しみをあじわったのですが、ヘブル人への手紙12章2節が「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」と語っているのは、イエスさまは十字架の死ではなく、死からのよみがえり、という神の栄光を見ておられたがゆえに喜ぶことができたのではないでしょうか続けて3節には「ああたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と、イエス様のことを模範にするように勧めています。ですから、パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と、単に喜ぶのではなく、「主にあって」と勧めているのは、喜ぶ根拠が贖いにあるからではないでしょうか。主を信じたことによって死や悪魔、神の怒りから救われていることを、どんなことがあっても、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことができないという確信を持っておられたがゆえに、状況を超えた、感情ではなく真理を基盤とした喜びの世界に生きておられたのではないでしょうか。意気消沈するような時、救われていることを、神はすべてのことを益としてくださることを思い起こし、救いの喜びに浸ろうではありませんか。