ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(コリント人への手紙第一1章24節―25節)

1.使徒の働き4章1節―13節
2.エペソ人への手紙6章10節―20節
3.ピリピ人への手紙3章2節―16節
4.ピリピ人への手紙4章12節―13節

パウロは人の知恵の愚かさについて語ってから今日の聖句を語っています(コリント人への手紙第一1章20節―22節)。その愚かさについてどんなにこの世の知識が豊かであっても創造者なる神ではなく人の手によって造られ、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても話すことができず、足があっても歩くことができないような偶像を神として拝んでいるような生き方をしていることを指摘しているだけでなく(ローマ人への手紙1章22節―23節)、偶像を拝むことはその背後に働く悪魔や悪霊を拝んでいることになることをも指摘しています(コリント人への手紙第一10章19節―20節)。悪魔や悪霊は、人よりも力があり人を惑わす知恵を持って人に罪を犯させるように働きますし、キリスト者が肉、すなわち「私、自我」に生きるように誘惑します。パウロは肉に属して生きているコリントの教会に行った時について「私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたのではなく、御霊と御力の現れでした。(コリント人への手紙第一2章1節―4節)」と告白しています。私たちも弱さを覚える時、恐れが襲ってきた時、パウロと同じように死からよみがえられ、神の力と神の知恵を示されたイエス・キリストが聖霊なる神として内住してくださっていることを、永遠のいのちが与えられているので、すでに世に勝利していることを思い起こそうではありませんか。