主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです(コリント人への手紙第二12章9節―10節)

1.ヨシュア記1章1節―9節
2.サムエル記第一30章1節―20節
3.エペソ人への手紙1章14節―19節
4.ピリピ人への手紙4章12節―13節

パウロは、肉体に与えられたひとつのとげを去らせてくださいと主に三度も願い出たにもかかわらず、主からの応答は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」であったことを受けて、彼は願いがかなえられなかった理由は彼が高ぶらないためであるとともに「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と「ですから」「ですから」と二度、弱さを誇る理由、迫害にあってもそれに屈しないことができるのは主のことばによるものであることを強調しておられます。私たちは弱さを覚える時、とかく自分を見てパウロがローマ人への手紙7章で、いつも善をしたい願いがあるのにそれを実行できない自分の弱さを、みじめさを嘆いてしまうのではないでしょうか、しかし、彼は神がどのような方であるかを、キリスト・イエスにある神の愛がどれほどのものであるのかを、知ったことによって、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と告白されました。弱さやみじめさを覚える時、自分から目を離し、神は私たちの弱さの中に働かれ、すべてのことを働かせて益としてくだる方であることを、十字架の死をもって神の愛を示された神の力であり神の知恵であられるイエス様(コリント人への手紙第一1章24節)が聖霊なる神として内住しておられることをも思い起こし、心と思いが守られるように感謝をもって主に願いや祈りをささげ(ピリピ人への手紙3章6節ー7節)、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙413節)」と告白されたパウロのように主から力をいただいて生きようではありませんか。