私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(コリント人への手紙第一15章3節―5節)
1.イザヤ書53章1節―12節
2. 使徒の働き2章22節―41節
3.ローマ人への手紙6章17節―23節
4.ペテロの手紙第一1章3節―9節
ペテロはイエス様について「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と言ったにも関わらず、イエス様が、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められると、ペテロは「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」とイエス様を引き寄せていましめただけでなく(マタイの福音書16章15節―16節及び21節―22節)、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカの福音書22章33節)」と申し上げたにも関わらず、イエス様が捕らえられると、三人の方からイエス様と一緒にいたことを指摘されると、イエス様のことを知らないと、しかも三度目には、のろいをかけて誓うようなことをしましたが、鶏が鳴いた時、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」と言われたイエス様のことばを思い出して大祭司の中庭から出て行って激しく泣いたのですが(マタイの福音書26章69節―75節)、死からよみがえられたイエス様に再会し、聖霊に満たされると人を恐れずに他の十一人の使徒たちと一緒に立って、十字架の死と復活について大胆に語ったのでした(使徒の働き2章22節―32節)。ですから、パウロは最も大切なのは十字架の死と復活であることを語ってから、ケパ、すなわちペテロと十二弟子がその証人であることを語ったのでした(コリント人への手紙第一15章3節―5節)。そのペテロは「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(ペテロの手紙第一1章3節)」と語っています。イエス様が死からよみがえられたことによって与えられた望みは、かなえられるかどうかわからないような望みでも、死によって消滅するような望みでもないことをことを心にきざみ、キリストの証人として生きるために、最も大切な十字架の死と復活を忘れないようにしようではありませんか。