十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(コリント人への手紙第一1章18節)
1.ルカの福音書23章13節―43節
2.ヨハネの福音書19章14節―30節
3.ローマ人への手紙7章19節―8章3節
4.ヘブル人への手紙2章5節ー18節
今日の聖句「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」には、十字架のことばは受け取る人によってその価値が異なることを語っています。イエス様を真ん中にして二人の犯罪人も十字架にかけられたのですが、その時イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなして祈られたのですが、自分達のためにイエス様がとりなしておられることに耳を傾けることなく、民衆も指導者たちも兵士たちもイエス様のことをあざ笑ったでけでなく、十字架にかけられていた犯罪人のひとりも悪口を言ったのですが、もうひとりの犯罪人は悪口を言った犯罪人対して「おまえは神をも恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめてから「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束され(ルカの福音書23章33節―43節)、最後に「完了した。(ヨハネの福音書19章30節)」と、贖いのわざが、救いが完成されたことを宣言されたのでした。ヘブル人への手紙2章10節は「神は多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」と、パウロが「肉によって無力になったため、律法ではできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」と語っているように罪には刑罰がともなうものだからではないでしょうか。十字架を忘れると、空しさを抱えたり、落ち込んでしまい力を失ってしまうのではないでしょうか。どんなときにも十字架で罪の代価は支払われていることを、罪や死から救われ、永遠のいのちが与えられていることをしっかり心に据えて、十字架をむなしくしないように生活しようではありませんか。