私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章38節―39節)
1.ヨハネの福音書10章22節ー30節
2.ローマ人への手紙5章6節ー11節
3.コリント人への手紙第一13章4節ー13節
4.エペソ人への手紙2章1節ー10節
人の愛はとかく感情に支配され相手のことを考えるよりも自己満足的なものがあるために、気分次第で愛が憎しみに変わってしまうようなことがあるのではないでしょうか。極端になると、相手のことを考える余裕も無くなってストカー行為に走り、時には犯罪を犯してしまうようなことをしてしまうのではないでしょうか。しかし、イエス様はご自身を一粒の麦にたとえられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12章24節―28節)」と、ゲッセマネの園(マルコの福音書14章32節―36節)においても感情との戦いがありましたが、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイの福音書5章43節―44節)」と仰せられたように、十字架にかけられながらも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と取りなして祈られ、あざ笑う人々、悪口をいう人々に言い返すことなく、罪人を救うためにご自身を捧げられ神の愛を示されたのでした(ルカの福音書23章33節―39節)。パウロは神から与えられる義を知らずに自分の義に生き、キリスト者を激しく迫害し、神を敵するような生き方をしていましたが、彼は「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」とキリストによって示された神の愛がどれほどすばらしいものであるかを知る者になったのでした。キリスト者になっても感情に支配されてさまざまな間違いを犯しますが、イエス様は罪に定められないように祈っていてくださることを忘れずに(ローマ人への手紙8章34節)パウロと同じ確信をもって生きようではありませんか。