あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。(申命記8章5節)

1.箴言3章11節ー12節
2.テモテへの手紙第二2章8節ー14節
3.ヘブル人への手紙5章7節ー10節
4.ヘブル人への手紙12章2節ー11節

今日の聖句「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」はモーセが約束の地に入る民に語ったことばです。主はダビデに彼の子孫に対して「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵み(英語訳:愛、どちらにも訳せる)をサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。(サムエル記第二7章14節―15節)」と約束されたのでした。ですから、ヘブル人への手紙12章5節-7節及び10節―11節は「『主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。・・・肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを苦しめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいおのではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」と語っています。懲らしめさえも訓練として受け入れて生活するための秘訣は、イエス様が「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいになるのです。(ルカの福音書6章40節)」と仰せられたように、主と同じ聖さにあずかるためであることを、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ(マタイの福音書3章17節)」と父なる神から言われたにもかかわらず、悪魔の試みに会われたり、ご自分の民であったユダヤ人から迫害を受け十字架にかけられながらも人々のためにとりなされた、信仰の創始者であり完成者であるイエス様のことを、神に愛されていることを思い起こすことにあるのではないでしょうか。