「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章6節―8節)

1.マタイの福音書24章3節ー35節
2.ヨハネの福音書1章1節ー17節
3.ペテロの手紙第一1章18節ー25節
4.ペテロの手紙第一5章10節ー11節

今日の聖句は人を草にたとえ、人の栄光を野の花にたとえて、人は枯れる、すなわち、人はこの世に誕生してから成長していきますが、時間の経過とともに歳を重ねながら老化するものであり、人の栄光は、たとえ歴史に書かれ、人の記憶にとどまることができても、この世を去る時に功績や栄光をほめたたえられても、死からよみがえられることによって明らかにされた主の栄光と違うことを、パウロは「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。(2017訳:恥ずべきものを栄光としている。)」と語っています。一方、パウロは「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(コリント人への手紙第二4章15節―17節)」と、加齢も老化もすべての人に及びますが、老化は進む速度には個人差がありますが、キリスト者の場合は、どんなに老化して記憶力が衰えても、それに左右されないで、かえって信仰が成熟していくことを語っているのではないでしょうか。主人の母は父が召された後老人ホームに入り、認知症になりましたが、主人が電話して祈ると、母も全く認知症とは思わされないような祈りをしたそうです。彼女はいつも主人のために祈る人でした。人は「霊魂」と霊と魂は一つのものと思いがちですが、ヘブル人への手紙4章12節に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。ペテロの手紙1章23節は「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」と語っています。なぜなら、主は永遠の方であるかではないでしょうか。私たちの行いによって救いが、キリスト・イエスにある神の愛がキャンセルされることがないことを、永遠の栄光の中に招き入れられていることを感謝し、世の光として輝くために、永遠のいのちのことばをしっかり握って(ピリピ人への手紙2章15節ー16節)、主をほめたたえて生きようではありませんか。