どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。(テサロニケへの手紙第二2章16節―17節)

1.詩篇94篇16節ー19節
2.詩篇119篇49節ー50節
3.ローマ人への手紙5章1節ー6節
4.コリント人への手紙第二 1章3節ー5節

パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができないからです。・・・私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章18節及び24節)」と告白しているように、神が備えてくださった良い行いを(エペソ人への手紙2章10節)自分の力ですることができないことを実感されていたがゆえに、「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」と祈られたのではないでしょうか。パウロは神がどのような方であるかを語ってから、あらゆる良いわざとことばに進むためには、神によって心が慰められることと、心が強められる必要があることを語っています。彼は「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか、患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」と彼自身が体験されたことを語ってから「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ人への手紙8章35節―37節)」とキリストによって勝利することができることを語りました。死からよみがえられ生ける希望を、慰め主である聖霊様を与え、どんな状況にあっても勝利を与えてくださるイエス様に目をとめて生きようではありませんか(ヘブル人への手紙12章2節)。