俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(テモテへの手紙第一4章7節―8節)

1.ルカの福音書639節―49
2.コリント人への手紙第一9章23節ー27節
3.テモテへの手紙第一6章2節ー16節
4.ヘブル人への手紙12章2節―15節

パウロは、まず「後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(テモテへの手紙第一4章1節)」と、御霊によって書かれた聖書の教えよりも、この世の霊の影響を受けているこの世や人の教えに心が奪われてしまって信仰がなえてしまうという危険性を語ってから、「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」とまず、空想話、すなわち、想像力を働かせてあれこれ考えて「ああでもない、こうでもない」というような愚かな話、よりどころのない話を避けるように語ってから、敬虔、すなわち神を敬うために自分を鍛練するように勧めるとともに、「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」と語っています。確かに肉体の鍛練は、健康を維持するために益となるかもしれませんが、そのことによって肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめももたらさないために罪を犯し続けてしまうだけでなく(コロサイ人への手紙2章20節―23節)、過剰に鍛練すると、かえって体に支障をきたしてしまうようなことがあるのではないでしょうか。敬虔について、死に勝利することができない偶像崇拝による敬虔さではなく、「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔はすべてに有益である」と語っていますが、それは恵みとまことに満ちておられるイエス様によって成就したのでした。肉体の命も主から与えらられたものですから大切ですが、肉体の命ばかりにとらわれてしまうと恐れに支配されてしまう可能性があるのではないでしょうか。自分の考えや思いにとらわれずに、パウロのように、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを知って生きるなら、今のいのちにあって満ち足りた心が与えられますし、復活をもって永遠のいのちを明らかにされただけでなく保証として御霊が与えられていることを自覚し、単なる敬虔さではなく、まことのいのちを与えてくださった主を心から敬い、恵みから落ちないように、主をほめたたえて生きようではありませんか。