私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙1章16節―17節)

1.ローマ人への手紙322節―24
2.コリント人への手紙第二517節―21
3.ペテロの手紙第一123節―29
4.ペテロの手紙第二1章1節―10節

一般的に「救い」とは直面している問題や困難な状態から救われるという、いわゆる救済のように考えがちですが、パウロは、人の知恵では解決できない死をもたらす罪や罪を犯すように誘惑する悪魔の力からの救いを意味するもので、すべての人が必要としているものであり、それはイエス様を信じるすべての人に与えられるものであることを、しかも「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができるように。(エペソ人への手紙1章19節)」と、神の力がどれほどのものであるかをキリスト者は知って欲しいと語っています。信仰に関する聖書箇所にはたびたびアブラハムが登場します。彼は主を信じましたが、エジプトにおいては自分のいのちを愛し、サラに人々には妹というように話しましたが、イサクを捧げるように神が仰せられると、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と仰せられた主の約束を信じ(ヘブル人への手紙11章17節―19節)、彼は神のことばに従いイサクを捧げようとした時、主は「あなたの手を、その子にくだしてはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは。自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」と仰せられ一頭の雄羊をご用意されていたのでした。アブラハムのように、神の義は神との関係を修復してくださったイエス様によって与えられる信仰によって始まり、日々の生活において信仰が深められ義の実を結ぶように主が育ててくださり信仰によって神との関係が全うされることを語っているのではないでしょうか。先日「コロナ禍の中にあっても、信徒たちが家族や友人を教会の礼拝にお誘いし、福音を伝えていきたいとの願いで、今回、ボーマン先生ご夫妻に礼拝での賛美演奏やお証をお願いいたします。」というメールをいただきましたので10月17日に伺うことになりました。ピリピ人への手紙2章12節が語っているように主が与えられた志と思います。お祈りいただけましたら感謝に思います。ご家族をはじめ長い間祈って来られた方々に福音が届きますように、各教会の福音宣教のお働きを主がお導きくださるように祈ろうではありませんか。