私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。(ローマ人への手紙5章6節)

1.イザヤ書531節―10
2.使徒の働き1333節―43
3.テモテへの手紙第一2章4節ー6節
4.ヘブル人への手紙2章9節―18節

今日の聖句は「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」と、イエス様が十字架にかけられて殺された時は、神が定められた時、私たちが弱かった時、と二つの時について語っています。パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章18節―8章3節 )」と、心に葛藤を覚え悩みましたが、その解決がキリスト・イエスにあることを語っていますが、内なる人としては神の律法を喜んでも守れない弱さこそが今日の聖句が語っている「弱かった時」であり、「不敬虔な者」であったなのではないでしょうか。イエス様は「わたしが来たのは律法や預言を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイの福音書5章17節)」と仰せられたように、裏切り者であるユダが「先生。お元気で。」と口づけしたのを合図に群衆がイエス様に手をかけて捕らえたのですが、それは聖書のことばが実現するためであることを語ったのでした(マルコの福音書14章49節)。不敬虔な者を救うために御子をお遣わしになった神の愛の深さと父のみこころを実現するために、恵みによる救いを成就するために想像を絶する苦しみをお受けになっただけでなくご自身をおささげになった主をしっかり心に据えて、神が、イエス様が喜ばれるように生きるようにするとともに、失敗した時には自分に失望するのではなく、恵の座で十字架を仰ぎ見て、その過ちの代価を主が支払ってくださったことを思い起こし神の愛、主の恵みを、救われていることを日々感謝するとともに人々が十字架の恵みを知ることができますように祈ろうではありませんか。