人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。(箴言19章11 節)
1.マタイの福音書6章1節ー13節
2.エペソ人への手紙4章17節―27節
3.コロサイ人への手紙3章3節ー13節
4.ヤコブの手紙1章12節―21節
イスラエルの最初の王として油をそそがれていたサウルは、主に聞き従うよりも自分や民の考えで行動したことにより、神との関係が崩れてしまっていたので、ダビデを非常に愛して自分の道具持ちとして召かかえ(サムエル記第一16章21節)、やがて戦士たちの長に任命したのですが、ペリシテ人との戦いに勝利して凱旋したとき、女性たちがイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながらサウル王を迎えたのですが、「主はサウルとダビデを用いて勝利を与えてくださった。」と主をほめたたえることをせずに「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と笑いながら繰り返し歌ったために、そのことばを聞いてサウルは非常に怒り、不満に思って「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と言い、その日以来、ダビデを疑いの目で見るようになり(サムエル記第一18章5節―9節)、サウルにとってダビデを殺害することが一生の目的となってしまったのでした。サウルに見られるように主との関係が崩れてしまうと肉の思いに支配されてしまうのではないでしょうか。怒りを招く要素には、ねたみやプライド、党派心、パリサイ人や律法学者のように自分の義に生き、神の義を知らないことにあるのではないでしょうか。今日の聖句は「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」と怒っても罪を犯さないように生きるために(エペソ人への手紙4章26節―27節)、怒りがこみあげて来た時、主はすべてのことをご存知であることや、自分も完全でないこと、神の怒りから救われている恵みを思い起こし、パウロが「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださってように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)」という勧告に従って、十字架につけられたとき、人々のためにとりなして祈られたイエス様のことを考えるなら、思慮のある生き方をすることができるのではないでしょうか。