そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(テモテへの手紙第一2章1節)

1.ヨハネの福音書1624節―33
2.エペソ人への手紙610節―20
3.ヤコブの手紙5章13節ー18節
4.ヨハネの手紙 第一5章14節ー15節

パウロはキリスト者に「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙12章2節)」と、また「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」と勧めていますが、その理由として「それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」と信仰生活が守られるとともに神に喜ばれることであることを語っています。報道番組を見ていると、多くの場合、期待していたにもかかわらず、過ちを犯すと、とりなすよりも手のひらを返したように批判するようなことをするのではないでしょうか。ヤコブの手紙3章2節が「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」と語っているように、キリスト者であっても完全ではないので多くの点で失敗しますが、イエス様はキリスト者が罪に定められないようにとりなしていてくださるのです(ヨハネの手紙1章8節―2章1節)。批判するのは簡単ですが、今日の聖句が王とすべての高い地位にある方々を含めすべての人のために主を知り救われるように願うとともに、神はすべての人が救われることを願っておられることを、自分の義に生きて高ぶらないように、私たちもとりなしていただいていることを心に留めて、人々のためにとりなして祈るとともに、その祈りを神は聞いてくださることを感謝して、心と思いを守っていただこうではありませんか。